横須賀線の久里浜延伸は、戦時下での突貫工事だった
横須賀市史で調べものをしていて、ふと目に止まったのですが、終戦直前の5か月間、横須賀線の衣笠側トンネルの出口付近に「相模金谷駅」があったそうです。今の池上中学校にあった工員宿舎の徴用工が海軍工廠に通うためでした。言われてみると、そのような名残の地形があるようにも思えます。
また、横須賀線ができたのは明治22年ですが、久里浜までの延伸は終戦の1年前に完成しています。これは、海軍施設が市の南側に広がっていき、それに伴って海軍側から延伸の強い要請があり、太平洋戦争下にあって突貫工事が行われたということです。
延伸にあたっては、久里浜までの最短経路でトンネルとなったのですが、すでにあった京急線や国道との立体交差をどうするのかが課題で、その結果、京急線の下にトンネルを掘ったため、汐入付近の最下部は満潮水位とほぼ同じで、今も常時湧き出る地下水を排水しています。また、坂本の谷の深い所では、線路が地上に出ると防空上の問題があるとして、土盛りをしてトンネルにしたということです。
元々は複線の設計でしたが、終戦で間に合わず、戦後は必要性がないとして単線のまま現在に至っています。もう少し早く着工していれば、半島中央部のまちづくりが今とは変わっていたかもしれません。
また、横須賀線ができたのは明治22年ですが、久里浜までの延伸は終戦の1年前に完成しています。これは、海軍施設が市の南側に広がっていき、それに伴って海軍側から延伸の強い要請があり、太平洋戦争下にあって突貫工事が行われたということです。
延伸にあたっては、久里浜までの最短経路でトンネルとなったのですが、すでにあった京急線や国道との立体交差をどうするのかが課題で、その結果、京急線の下にトンネルを掘ったため、汐入付近の最下部は満潮水位とほぼ同じで、今も常時湧き出る地下水を排水しています。また、坂本の谷の深い所では、線路が地上に出ると防空上の問題があるとして、土盛りをしてトンネルにしたということです。
元々は複線の設計でしたが、終戦で間に合わず、戦後は必要性がないとして単線のまま現在に至っています。もう少し早く着工していれば、半島中央部のまちづくりが今とは変わっていたかもしれません。
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